2020/01/22

刹那的交差から、持続的共存へ

all about paradiseというバンドを始めてから約2年半もの間、私はずっと「クロスオーバー(交差)」に関心を向けてきた。元々はっきりとコンセプチュアルに考えていたわけではないけれども、バックグラウンドの異なるメンバーが集まったバンドの特性上、性別、年齢、出自、思想などあらゆる違いによって普段交わることのないものを瞬間的に交差させる試みとして、aapの音楽活動を位置づけるようになった。

ライブハウスとクラブ、ロックとエレクトロ…いろんな言い方があると思うが、私たちはとにかく異なるいくつかのシーンを横断するように活動した。その集大成として昨年「PARA」というアルバムをリリースし、発売後には「超越的旅行」と銘打ったリリースツアーを敢行した。
ここまでの活動とその根幹の考え方については TURNに掲載されたインタビュー で詳しく話しているので、興味のある方はぜひ読んでみてほしい。

‪「クロスオーバー」にしばらく本気で向き合ってきていま感じているのは、クロスオーバーを表面的/瞬間的に実現することに成功したとしても、根底に脈々と流れ続けてきた思想の違いを本質的に交差させるのはやはりなかなか難しいということだ。クロスオーバーに賛同できる人はもともとジャンルレスな思考と嗜好を持ち合わせていることが多く、ひとつのカテゴリーに特化する人までを包括して幸福にすることは、やはりできなかった(自分の力不足という話は一旦棚上げで…)。
これは音楽に限った話ではなく、クロスオーバーを悲観しているわけでもない。

多様な価値観が混ざり合う世界に順応していくために、いま社会ではさまざまな動きが起こっている。
例えば、ジェンダーやセクシュアリティに関する固定化された価値観を変えるための活動が(ようやく)多くの人から注目されるようになってきた。また、ハラスメントに関する価値観なんかもだいぶ揺らいできて、何がハラスメントにあたるのかとヒヤヒヤしながら発言するテレビスターたちを見ていると「ああ、いま時代の過渡期なんだな」というか、まだ次の居場所が定まらないなかでみんなが行き場を模索しているのを感じる。

こんな時代を突き動かしていくためには、やはりある意味で極端なクロスオーバーの力が必要だ。「みんな違うけど一緒に仲良くしよう」で丸く収まる世界なら、あらゆる社会活動は要らない。これまで相容れなかったもの同士を、無理やりにでも、ぶつかってでも対峙させる作業を経て、価値観が変わる人もいれば、自分の立場を再確認する人、考え方が異なる人を強く嫌う人もいる。まずはその反応を引き起こしてみることがなにより重要だった。クロスオーバーの試みとは、そもそも大きな反発の可能性を孕んだバブルみたいなものなのだ。

この先、クロスオーバーの気運が少しずつ落ち着いてくるような気がしている。
違和感のあるものを目の当たりにし続けることは、とても疲れるからだ。どうしても相容れない考え方をする者同士が共存するための最適解は、「積極的な関与」よりも「寛容な無関与」にシフトしていくのではないかと今の私は感じている。違うもの同士が断絶されることも近づきすぎることもなく「リスペクト」によって緩やかなつながりを保つ…それこそ多様化したこの世界を生き抜くための唯一の方法という気がする。

最近あらゆるジャンルを扱うメディアで「サステイナブル(sustainable)」という言葉を見かける。

サステイナブル=持続可能な

主に「持続可能エネルギー」「サステイナブルな暮らし」など "自然にやさしい" とか "環境保全に配慮した" みたいな意味合いで自然保護の文脈で用いられるが、人間と自然の関係だけでなく、人間どうしの関係に当てはめて使ってもすごくベンリな言葉だ。

私は、多様化社会におけるあらゆる活動がクロスオーバーを志向しすぎて刹那的ブームで終わってしまうのがこわい。私たちは違う考え方をする人とも共存していかなくてはならないし、できることならわかりあえなくても、お互いへのリスペクトのもとハッピーに過ごしたい。その可能性をサステイナブルな関係のなかで探っていけたらな、と思っている。…甘いだろうか?しかし次の代替案が見つかるまでは、試してみたい。

2020年は、こういう気持ちで!

2019/07/24

セルフ・ライナーノート:PARA (all about paradise)

PARA / all about paradise

ニューヨーク ロンドン 宇宙の果て
UFO 飛ぶ彼方を
何億年も夢見ては
追いかけた あなたと

機能不全の組織
USO 飛ぶ最中を
何億年と暮らしている
シビレそうな あなたも

きっと知らない世界へダイヴ
保障はないけど
正解かな 不正解かなんて
投げ出してよ
とうに限界を超えているんだ
目を覚ませ
踊っていたい 答えのない
最新世界で

平成と令和 きたるフューチャー
時空を超えあなたを
何億年と見つめていく
もうひとりのあなたと

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3日前、急に帰省することを決め飛行機に乗った。
今日は101歳になる祖母が介護される様子を眺めていた。
もう自ら喋ることもなくなった祖母は、
誰かと目が合うとにっこりと笑顔を見せてすぐ無表情に戻る。
次々と口に運ばれてくる半流動食を飲み込みながら、
祖母が何を考え、何を感じているか
私にはほとんど見当がつかなかった。

私がめずらしく田舎の空気を求めたのは、
なんとなく最近のムードから逃げ出したかったからかもしれない。
立て続けに起こる悲しい事件や騒動、選挙などをめぐる議論が巻き起こり、
いろんなところで「違い」がぶつかりあっていた。

多様性の時代と言われはじめて、もうずいぶん経ったように思う。
「お互いの違いを受け入れよう」という社会の雰囲気は
みんなの自由を実現するためにあるはずなのに、
かえって窮屈に感じてしまうのは、なぜだろうか。

(( para-llel ))

血のつながった祖母のことさえもわからないのだから
どこか遠くの惑星に住む宇宙人なんかじゃなくて
一緒に演奏しているバンドメンバーのことも
たくさんの言葉を交わし合う友人のことも
私には、どうしたって実際に理解することはできない。

考えてみると当たり前のことだけれど、
私たち一人ひとりが生きている世界はすべて並行していて
どんなに近くにいる家族や恋人でも世界が交わることはない。
ケガを負った親友の痛みを、
私が実際に感じることは絶対にできないのだ。
頭ではそれをわかっているはずなのに、
私たちは普段、あまりに多くの情報を交換しあっているので、
どこかで理解しあえると思い込んでしまっている気がする。

(( para-lyze ))

それは一種の麻痺みたいなものだ。
情報があふれ、しかもその中には嘘だって紛れ込んでいるけれど
情報の渦に飲み込まれ痺れてしまった頭と心は、
「誰かと完全にわかりあうことなどありえない」ということを忘れ
自分のわからないものを突き放し、ついには攻撃しはじめる。

(( para-dox ))

──私たちは決して理解しあえないことを思い出そう。
違いが違いのままに存在することを受け止めよう。
私たちがいるのは、わかりあえなくて悲しい世界ではない。
それは想像するということ。

「普通に考えて」「常識的に」
それはきっと自分の知っている世界のなかでしか通用しない。
自分のなかにある 普通/常識 に逆らって
知らない世界に飛び込んでみようとする。
それが想像するということ。

101歳の祖母の喜びを、人を殺めた男の悲しみを、国会議員の痛みを、
香港に住む人びとの怒りを、障害者と呼ばれる人びとの楽しみを、
私が実際に感じることはできないけれど、想像することができる。

(( para-site ))

もちろん、いくら想像しても誰かを完全に理解することはできない。
だけど、理解できないことを知っている私たちは、
きっとなにかを超えてゆける。
違いを克服してひとつの正解を導き出そうとするやり方には
もうとっくに限界が来ている。
違いが違いのままに隣り合い、寄り添って生きる時代へ
私は自分自身の手をとって、連れてゆきたい。


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*paraの語源、用法については、以下のサイトを参考にさせていただきました。
重要接頭辞 1)para | 概念を孕むこと。

2018/11/05

セルフ・ライナーノート:2020 (all about paradise)

2020 / all about paradise

さあ 響き渡れ 声とファンファーレ
東京 謳え躍れ はじまりの祭典を

神様 仏様 ちょっと待って 今は
勝負の行方だけを見届けたい

なんだっていいやって思えちゃうね
今宵は無礼講!
後悔も 心配も 置き去り
つかの間の 離脱(ブレイク・オフ)

人類が限界を超えたとき
歴史は変わる
精神と身体の闘いに
魅せられていよう

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紀元前の古代ギリシアで誕生した競技祭は、
世界中を巻き込む地球上で最大の祭典となった。
開催が決まるとあらゆるメディアが放映権を奪いあい
あらゆる企業がスポンサーになるために多額の資金を投入する。
開催国では税金を使ってたくさんの施設が新たに建設され、
さまざまなルールを整備し、膨大な数の人員が配置される。

もちろんスポーツをするには場所がいるし器具がいるし
放送してくれるテレビ局のおかげで多くの人が楽しむことができる。
だけど、なんのためにこの盛大な祭りが開催されるのか、
そして一体スポーツとは誰のためにあるものなのか
ときどき、わからなくなる。

一方で、2018冬季開催の時、アメリカ人選手の演技に
北朝鮮の応援団員が思わず拍手を送ってしまった"規律違反"のニュースを
わたしはどうしても忘れることができない。

スポーツをする方にはまったく縁のない人生を送っているけれど、
テレビの中の選手たちの信じられないほどの精神力や
極限まで身体能力を高めた者同士が0.1秒の世界で競い合う姿、
競技の合間に見える人間らしい笑顔や涙に
わたしは何度も心を動かされてきたし、時に泣かされてしまう。
スポーツの最もすてきなところのひとつは、
人間として、人間に共感したり感動したりできるところだと思う。
たとえ、それが敵対する国の選手だったとしても。

世界情勢やビジネスと切り離して考えることなんて
もう絶対にできなくなってしまった”あの”スポーツの祭典は、
スポーツ以外のルールでがんじがらめだ。
祭りの名前すら、簡単に使ってはいけないのだから。
この曲や映像だってもしかしたらいつか消されてしまうかもしれない。

スポーツはいくつもの問題に取り巻かれている。
だけどその一瞬だけは、誰にも邪魔できない。
誰もが息をのんで勝負を見守るしかない。
わたしもその瞬間は頭をからっぽに、
人間の精神と身体の究極の闘いに、ただ身をゆだねていたい。

2018/09/10

正しさのスキマ

最近、テレビやインターネットを見ているだけでめちゃくちゃ疲れてしまう。
政治経済のおかしいところにビシッとツッコミを入れる人
マイノリティの権利を守るために叫ぶ人
続く自然災害の被害の記憶を忘れないこと、
そしてこれから起こりうる災害への備えを呼びかける人
いま、世界が「正しさ」の言説にあふれていると思う。
みんなが正しいことを発信して良い社会をつくろうとしていて、
わたしは自分がそれを見るのに疲弊していることに気づく。

わたし自身、幼いころから正しさの魅力に憑りつかれている方だと思う。
成績が悪いと何となくいやな気分になったし、
過去に自分が犯した過ちもなかなか許せない方だった。
ましてや他人の間違いについては、きっといまより全然許せなかった。

正しさは、正しいということそれ自体を武器にして
あらゆるものを傷つけてしまう強い攻撃性を持っている。
インターネットでは、誰にも面と向かわずに、かつ熟考された言葉で正しさを投げつけることができるので、
きっとその力がフルパワーで(ときにはそれ以上の威力を持って)伝わってくるのだと思う。
わたしのここ最近の疲れは、正しさのもつ暴力性というか攻撃性に対する疲弊、
そして、自分が律儀にその正しさにしたがって生きることに対する疲弊なのかもしれないなあと感じている。

わたしはお笑い芸人がやっているくだらない深夜ラジオをよく聴くのだけど、
純粋な話の面白さに加えて、ラジオ特有の急がない間や中身のない会話が
「正しさのスキマ」を提供してくれるものとして、愛している。
芸人たちのトークは世の中的に明らかにNGな内容でもきちんと笑いにしてくれるし、
ハガキ職人も、番組のなかで完結する笑いの世界をしっかりと守ってくれる。
(「笑いのルール」みたいな視点が入ってくるとまた窮屈になってくるので、
わたしはあくまでリスナーとして何も考えずヘラヘラ聴く)
お笑い以外でも、例えば漫画家のさくらももこさんや音楽家の坂本慎太郎さんの作品、
あとはマツコ・デラックスさんにも同じような「正しさのスキマ」を感じることがある。
正しさのスキマとは決して「正しくない」ということではなくて、あくまでスキマなのである。
知らないうちに抑圧されている何かをつかのま解放できる感覚だったり、
正しいことを考えずにいられる空白の時間だったり、そういった感じのものだ。

最近はそんな風にして正しさへの疲れみたいなものを癒しているので、
もしもわたしと同じようなことで疲れているのかもという人がいたら、
ちょっと正しさのスキマに入ってみるのもいいかもしれない。

2018/07/09

表現者として生きる人

所属しているバンドall about paradiseが
今週末に開催される「ap bank fes '18」に出演することになった。
私は、自分が人前で歌うことを始めたきっかけである
Salyuというボーカリストと同じ舞台に立つことになる。

彼女の一番好きなところは「表現者」であるところ。
上手く歌うひとはこの世にたくさんいるのだけれど、
Salyuさんは曲によって別人のように化けることができる。
リリィ・シュシュ、Salyu×Salyu、そしてSalyu、
それぞれの活動のなかで、まったく異なるアプローチで異なるものを伝える。
私はそこに一番のあこがれをもって、彼女の背中を追い続けてきた。
※5年位前に書いた文章が出てきたので載せておきます
「私はあくまでもボーカリストであって、表現にこだわることが仕事」
と語っていたことをよく覚えている。
自分の表現したいことを曲にして発信するということ、
つまり、アーティストやシンガーソングライター的な活動のほうが
創造性の点で音楽的に高く評価されがちだが、彼女を見ていると
歌うこと、表現することへの徹底したこだわりを感じさせるボーカリストも
同じように評価されるべきだと感じる。
「大事なのはどんな感情を込めるかではなく、どんな感情に見えるかということ」
という彼女の言葉からは、独りよがりではない、
聴き手への強い意識をもつ姿勢が見て取れる。
歌うこと、そして人に歌を聴いてもらうことを愛する1人として、
私は、Salyuの歌に対する姿勢に感銘を受けずにはいられない。
Salyuの表現力はいつでも、私の目標の1つとなっている。
こうして歌をうたう道に踏み出したのだけれど、
私は誰が見ても特別に才能がある、というタイプの人間ではない。
世の中には、歌が歌えて曲も作れて楽器までうまいなんて人がたくさんいる。
だから当然のように、何度も挫折をくり返してきた。
さらには、音楽がかっこいい・ダサい、売れる・売れないとか、
芸術だビジネスだとか、そんな話ばかりの世界で、
自分が何のために続けているのかわからなくなってくる。
ただ歌でいろんな音楽とその精神性を表現したいという心を
日々、何度も何度も、忘れそうになる。

いま私が歌っているall about paradiseというバンドの音楽は
テクノやエレクトロニクスの要素を多く含んだ、比較的歴史の浅い音楽。
私が自分自身で生み出すことは絶対にできなかったもので、
これまでの自分の辞書にはない言葉がたくさん出てくるような感じ。
自分になじみのないものを表現する挑戦が、単純に楽しい。

今回大きな舞台に立つことになり、改めてここまでの音楽人生を振り返ると、
きっと私は大きく蛇行をくり返しながらも、
自分のやりたいことに向かって進んでいるんだろうと思う。
数年前に、一度だけSalyuさんと言葉を交わしたことがある。
「いつかSalyuさんとかならず同じ舞台に立ちます」
「うん、がんばってね、私もがんばるから」
それが6日後にやってくるなんてまだ半分信じられないけれど、
もしも舞台裏で会えたら、いまも諦めずに背中を追いかけていると伝えたい。
表現者として生きる彼女は、これからもずっと私の目標とする1人だ。

2018/04/23

物語への反抗

わたしたちはいつも理由とか意味とかを探している。
犯人が殺人にいたった動機は?
あの子なんでアイツと付き合ってんの?
この絵画はなにを表現しているか?
なんてことを、いつもわかろうとしている。

わたしたちは遭遇した物事のほとんどすべてについて、無意識にわかろうとする。
たとえ遭遇したものをなるべくありのままに受け止めようとしてみても
自分のなかからいろんな知識が、経験が、意味が理由が、どんどん語りかけてくる。
わたしたちのなかには幾パターンもの物語が蓄積されていて
かならず、どれかに当てはめて理解させられる。

わたしが生きるとき、ある物語をなぞって生きているわけではないのに
生きることを見つめるとき、どうしてか物語になっている。
わたしはひとつひとつの瞬間を、ただ生きてきただけのはずなのに
脳みそが勝手に知っている文脈・意味・理由なんかをもってくる。
人生は、たちまち物語になっていく。

物語は自衛であり、脅威である。
わたしたちはいつも物語に守られていて、ときに苦しみから解放してくれる。
トラウマさえも乗り越えさせてしまう力がある。
わたしたちはいつも物語に囚われていて、ときに目の前のわけのわからぬ現実を
たったひとつの悲しい解釈に閉じ込めてしまうこともある。

だから、ときどき意味や理由を排除してみたくなる。
わたしはぼーっと眺めてみる
ハサミを鋭利なかたちをした金属の塊として
わたしはぼーっと聴いてみる
ラジオから流れる声を音の連続として
わたしはぼーっと思ってみる
父や母や弟をひとりの人間として
わけの分からないことは、分からないままに
知っている物語に閉じ込めてしまわずに
ただ存在するだけの時間を 物語の追いつけない時間を
実際には不可能でも、なるべく過ごそうとしてみる。

それは、人生が既存の物語に完結してしまうことへの、
自分だけの経験が安易に誰かに共有できるものに"落ちぶれて"しまうことへの、
小さな 儚い 反抗なのだと思う。

2018/02/22

僕らが手紙を書く理由

誰かに手紙を書く時は何となく寒い日が多いような気がする。
今日も、部屋をストーブで暖かく保って、
マグカップに熱い紅茶を注いでから、わたしは文章を書いている。
わたしの書く文章は、言葉遊びでも、抽象的・詩的なものでもなく、
伝える意志と方向を持ってひとつひとつの言葉を選んだ、ある意味での手紙である。
わたしにとって大人が手紙を書くことは、
"今ここにいない誰か"に宛てて何か特別なことを伝えることで、
ちょっとした覚悟のいる作業だ。
だから環境を整えて、万全の体制で書かなくてはいけない。

インターネットネイティブ世代のわたしたちは、
"今ここにいない誰か"に何かを伝える機会に恵まれてきた。
インターネットで"今ここにいない誰か"に伝える手段といえば、
はじめはメールやブログ。その次はミクシィなんかが流行った。
それがツイッターに取って代わられるようになり、
メールは気づけばほとんど使わずLINEが当たり前になって、
極めつけはインスタグラムである。
今、十代の間では動画でコミュニケーションをはかるアプリが流行っているらしい。
こんなにもわかりやすく、わたしたちは文章で交わす言葉の数を減らしていった。

いつどこにいても、"今ここにいない誰か"に
今のわたしの気分や状況をリアルタイムに伝え、
相手のこともだいたいわかるような雰囲気になった。
それは便利で、直感的で、表現にあふれた素晴らしい世界。
言葉のもつ「伝わらなさ」が見事に克服され、
誤解も曲解も無くなっていくスムーズな世界。
色や形、質感、音などでイメージをそのまま共有する、超感覚的世界。

ここでみなさんが予想している通り、
わたしはこういった伝達方法について疑問を投げかける。

ひとつ。イメージをそのまま共有することは、
感覚の実体を掴めなくなっていくことではないだろうか?と。
例えば音楽を聴いているときに、「これ最高!」と音楽そのものをシェアする。
そのとき、なぜ自分がそれをすきなのか、考えなくなっていることに気づく。
もしそれが手紙ならば、どんな気分の時に聴きたいとか、思い浮かべる情景なんかを、
慎重に、言葉を選んで伝えるから、同時に自分のなかに言葉を使った感覚ができあがる。
そしてはじめて、自分はこんな風にこの曲を聴いていたのかと気づく。
どんなに頑張っても、他人と自分の感覚を"実際に"シェアすることはできない。
言葉を使わなくなっていくと、自分自身とのシェアすら
できなくなってしまうかもしれない、と少し怖くなる。

ふたつ。気づかないうちに、わたしたちは伝えすぎてしまってはいないか?と。
例えばツイッターでつぶやいた何気ない言葉は、
"今ここにいない誰か"に伝えたいことなのだろうか。
誰にもあてていないメッセージを伝える、というか垂れ流すことで、
伝えていることへの自覚が、意志が、薄れていく。
無責任な表現が、でもたしかに世に放たれた表現が、この世に蔓延する。
伝えることがあまりにもたやすくなってしまったから、
本当は伝えなくてもいいことまで伝えてしまう。
誰にあてるでもない、宙にぽかんと置き去りにされたメッセージとして。

手紙を書くことには、自分と向き合う力がある。
自分の中にある感覚を言語化することで、自分の感覚を知る。
そして手紙を書くことには、かならず意志と方向がある。
伝えたい内容があって、伝えたい相手がいる。
それがどんなに小さな出来事や日常的なことでも、
そのために言葉を選んで届けたいという意志が、そこにはある。
そんなわけで、わたしにとって手紙やそれに似た文章を書くことは
ちょっとした覚悟のいることだ。
伝える意志を持ち、伝える方向を決めて自分と向き合う作業。

超感覚的表現ではなし得ない、誰かとの、そして自分とのコミュニケーション。
だからわたしは、ツイッターもインスタグラムも大好きだけれど、
手紙を書くという行為を、どうしてもしたくなってしまうのかもしれない。

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2018年2月21日、水曜日。渋谷 喫茶SMiLEで行われた
「クララズ 新しいミュージックビデオ上映会」に寄せて。