2017/12/30

ロックバーで夢見た少女の2017

長い人生のなか、人はその時の自分に必要な音楽にピンとくるものだ、と思う。

高校の頃、周囲の影響でパンクやロックンロールを聴くようになった。
中学時代まともに音楽を聴く友人もいないなか、
インターネットを通じて知り得たロキノン系(もしかしてもう死語?)音楽とともに
日々感傷に浸っていたわたしは、そんな小さな優越感を吹き飛ばしてしまう
パンク・ロックンロールの徹底した明るさと外向きのエネルギーに圧倒され、
これが本当の音楽の力だ!なんて思った。
(ロキノンにはもちろんロキノンの良さがあるので、それはまた別の機会にでも!)

毎週のように、地元のボロボロのライブハウスかロックバーで、
パンクスやロックンローラーが集っては歌い踊るパーティーをくりかえした。
高校生のわたしたちは全然お金がなかったけれど、
かっこいい大人が"パンクキッズたちに音楽の場を"とたくさん助けてくれた。
くりかえされるパーティーは、子供のわたしたちにはただただ楽しいものだったが
きっと大人たちにとっては、腐っていきそうな生活や自分自身に抵抗するように、
パーティーができる暮らしが続くことを祈るようにくりかえしたのだと、今は思う。
そのなかで恋をする者があったり、夢を語り合ったりして。
とにかくそこは希望とカウンター精神に溢れためちゃくちゃかっこいい空間だった。

「やりたくねぇことたくさんあるけど そういってやらなきゃ始まらない
何にもできずにこの町で 言い訳しながらくたばるしかない」

大好きだったパンクバンドが、わたしの住む町にやってきてこんなことを歌った。
この歌詞は、わたしの心を大きく揺さぶった。
ライブハウスまでの道のり、自転車を漕ぎながらこの曲を何度聴いたかわからない。
わたしは何にもできずにあの町でくたばりたくなかったから上京してきたのだ。

時は流れ2017年、大学を卒業し会社員生活を3年経験したわたしは、小沢健二に出会った。
正確に言うと、再会した。
はじめて"オザケン"の存在を知ったのは大学の頃。
渋谷系狂いの友人がピチカート・ファイヴ、ORIGINAL LOVEなどをあわせて教えてくれた。
たしか当時わたしにはポストパンクやUKオルタナ、ノイズなんかが一番かっこよく響いていて、
さらっと一通り聴いてそっと離れてしまっていたのである。

小沢健二の再始動や今年仲良くなった子がファンだと言っていたのをきっかけに、
わたしはなんとなくまた彼の音楽を聴いてみた。
すると今度は、びっくりするほど今のわたしにガツンと来たのだ!
美しい言葉遣い、キャッチーな音とファッション性によって、
彼は彼の哲学を人々の心に簡単に届けて虜にしてしまう!
驚異の才能とセンス、運の持ち主だと思った。
小沢健二はスターであり哲学者である。
一部のファンにとって神様的存在となっていることも、すぐに腑に落ちた。
ただ、もちろん彼は神ではないので万能ではない。
彼の哲学の本質は限られた範囲の(都市的・中上流階級的な、余裕ある)人間にしか
届かないものに思えるし、そういう恵まれた境遇から哲学を説くことに
嫌悪感を抱く人間も少なくないだろう。

わたしは、彼のまごう事なきポップミュージックにパンクの精神を見た。
彼は自らの類まれな才能をもって、都市の生活を変革しようとしている。
現代において、世の中を動かしやすい音楽はパンクではなくポップである。
さらに、世の中を動かしやすい者は都市に住む中上流階級に属する人間だ。
頭も育ちも良い男が、降り注ぐ「ヘイター(妬み嫉む者)」たちの批判に飲まれることなく
彼の持てる武器を最大限に使って本気で世界に挑んでいく姿勢は、
まさにパンクスそのものだと思った。

"Punk is attitude, not style(パンクは姿勢だ、スタイルじゃない)"
The clashのボーカリスト ジョー・ストラマーの名言をわたしはいま改めて思い出す。
17歳のわたしが感じたパンクへの希望は、いまなお尽きることなく燃え続けている。
わたしのパンクスピリッツが小沢健二という男との出会いによって、
ポップミュージックへの強い期待へとつながったことは、
2017年のわたしにとって最も大きな出来事だった。
わたしも微力ながらポップを使って世界に立ち向かうことを
今年、小さく誓ったのであった。


2017/12/22

都市の空気は自由にする(クリスマスの東京にて)

東京の冬がすき。
とくに、街じゅうがキラキラとした空気に包まれるクリスマスや年末年始が!

わたしが上京してすぐにお付き合いした人は、
東京のお金持ちのおうちに生まれたシティボーイだった。
彼は世界中の音楽やカルチャーに驚くほど詳しく、
いつでも洒落ていて、そしてやさしい人だった。
田舎者の私は、彼の洗練された佇まいや知的好奇心の旺盛さ、
そして他人に媚びないようなところがすきだったけれど、
どうしても追いつけない感覚がいつまでもあった。

彼は冬になると、たくさんのコートのなかから毎日ひとつを選び、
たくさんのマフラーのなかから毎日ひとつを選んだ。
靴はだいたい革靴かコンバースと決めているようだった。
東京の冬の街にはたくさんの人がいて、お洒落をする意味がある。
寒い寒いと言いながらみんながそれぞれの冬の空気を楽しんでいて、
各々が自由に時を過ごしているように見える。
誰かに見られながら、誰にも見られない時を、過ごしている。

わたしの故郷は、冬になると雪で全てが閉ざされてしまう。
雪が積もれば周りの音は一切聞こえなくなる。
唯一あるのは深夜にやってくる除雪車の轟音と振動だけだ。
あまりに寒いので人々は建物のなかからほぼ出ないし、
車で移動するので街の人の視線を受け取ることも少ない。
クリスマスは、同じ屋根の下暮らす家族のためにだけ存在したから
家族のない者はほんとうにひとりぼっちになってしまうだろう。
とても厳しく、残酷だろう。
田舎では、ひとりでいることが 異常事態 なのだ。

わたしは東京で孤独感を味わったことが、あまりない。
ひとりでいても気にならない気楽さがここにはある。
誰もが周りにある素敵なものや人に興味の視線を投げかけながら、
同時に自分の半径3mにいる人間にしか深い興味をもたない。
だからクリスマスの街を、洒落た身なりでひとりで歩くことがすきだ。
都会にいると、自分を見失わずにいられる気がする。

しかし上京して10年近くがたった今でも、
わたしの脱田舎者的メンタリティはあまり変わったように思わない。
都市の自由さを感じつづけていることは、
逆に田舎的な視線を自分自身に投げかけつづけていることなのかもしれない。
都市に嫌気がさす日は、いつか来るのだろうか?
田舎の窮屈さよりも都市の冷たさを残酷に感じる日は来るだろうか。

いまでもずっと、わたしは東京にあこがれつづけている。

2017/12/08

セルフ・ライナーノート:Coup d'État (all about paradise)

Coup d'État / all about paradise

戦闘態勢 やってみやしゃんせ
揺らせ 来・来・来
幻想抱いて ハッとすりゃ来世
つかめ 来・来・来

濁っちゃったよ
あぁ 息を吐いて吸っていたい
忘れちゃってもう
どうでもよくなって行くのでしょう

いつになっても
あなたの仰せの通り
気づいちゃったの
取り返しのつかないくらい

革命前夜の時代
鳴らして my spirit
穴をあけてちょうだい
今しかないんだ

運命なんて 覆す大波(ビッグウェーヴ)
起こせ 来・来・来
厭世観で 埋め尽くす人生
棄てて 来・来・来

すぐそこにある時代
だけど届かない
手を伸ばしてちょうだい
欲しがるならば

戦闘態勢 やってみやしゃんせ
揺らせ 来・来・来
幻想抱いて ハッとすりゃ来世
つかめ 来・来・来

運命なんて 覆す大波(ビッグウェーヴ)
起こせ 来・来・来
厭世観で 埋め尽くす人生
棄てて 来・来・来

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意志をもって生きることはとても面倒くさいことだ。
気がつくとわたしたちは、周りに文句をつけながら、
目の前の日々を終わらせることしかしなくなる。

社会は少しずつではあるけれども、確実に、
生き方を個人に大きく委ねるように変化してきている。
会社は終身雇用で未来を保障してくれる存在ではなくなったし、
女性にとって結婚や出産は選んでするべきものになりつつある。

だけど、実際そのなかに生きる人の多くはまだ
大きな"流れ"に身をまかせて生きているように思う。
もちろん身をまかせて生きることそれ自体は悪いことではない。
ただそれを無邪気に・無防備にやってしまうと、
まかせているはずの"流れ"がふと変わった瞬間や
その"流れ"に自分が乗れていないと感じた瞬間に、
「何をやっているんだろう」という虚しさに支配されてしまう。

わたしは、これからさらに人の生き方の多様化が進み、
自分で生き方を自由に決めていける、逆にいえば、
嫌でも自分の生き方を自分の意志で選ばなくてはいけないような
社会の制度と文化が整っていくんじゃないかと踏んでいる。
"流れ"に完全に身をまかせることのできない、
主体的な選択を求められる時代がくる。
だけど、それはもう少し先のことになるだろうとも思う。

現時点では、まだまだ"流れ"が大きな力を持っている。
だから、もし何かいまの自分の状況を変えたいと思っても、
これまで築いてきた関係や手に入れたものを手放すこと、
挫折したり批判を浴びたりして自尊心が傷ついてしまうことを恐れ
"流れ"のなかから抜け出せない人が大勢いると思う。
わたしもつねに、そのなかのひとりだ。

この曲は、それでも意志をもって新しい未来を掴みにいくという決意。
その過程ではたくさんの苦痛を味わって
心がボロボロにやられてしまうこともあるかもしれないけれど、
自分自身を革新していくためにクーデターを起こしつづけたい。
人生が虚しさに苛まれて終わることのないように。


2017/12/07

故郷を思わない

「同窓会」という場が苦手だ。
今はそれぞれ別の場所で別の人生を歩むかつての仲間たちと、
楽しく、上手に語り合うことができない。
帰省をしても家にいるか一人でふらふら散歩して終わってしまう。
私は、つめたい人間だろうか?

故郷の風景を懐かしむ音楽や文学がたくさんある。
私はいつも自分の心がそれを受け入れないことを知っているけれど、
なんだか自分が悪いことをしている気分になっていた。
世の中には「故郷や旧友を愛すべし」という教えがあると思っている。

いじめを受けつづけた小~中学時代、すべての景色は灰色で、
早くその狭くて息苦しい場所を出たくてたまらなかった。
自由で、聡明で、誰のことも気にせず息のできる東京で暮らしたかった。
楽しく過ごせた高校時代より前のことは、あまりよく思いだせない。

人はつねに変わっていく。
人が生まれた土地やコミュニティから解放された現代に、
故郷から心が離れていくことは、自然なことだと思う。
いつまでも同じ空間と人を愛しつづけなくたっていい。
変わっていく自分を受け入れ、
変わっていく仲間を受け入れ、
その時の自分にとって居心地のよい環境を
精いっぱい愛することができればそれで十分だ。

そう思うと、かえってわたしは故郷の土地を
今の自分が新たに出会うものとして愛せるような気がした。